AMBIENT GARDEN

1980年代の磐越西線と山都町の周囲のこと

日出谷駅

 遠くの街へ行く急行列車がカラカラと乾いたエンジン音を立てて通過していく。車内のお客さんは誰も僕に気付かない。
 銀色に光った線路から分かれて延びている草むらの線路。
 レールはまっ赤に錆びて、まくら木は朽ちている。
 柵を超えて、草むらの線路に遊びにやってきた子供達は、レールの上に腰掛けて四葉のクローバーを探している。
 草むらの中ではバッタとカマキリが昼寝をしていて、どこからか鈴虫の声が聞こえてくるけれど、その姿は見えない。

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  半分だけ・・・フィルムの始まりです。

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 1981年 日出谷駅

磐西あっちこっち。

 1981年9月頃、いつものコニカをぶらさげて休みの度に磐西をあっちこっちへ。

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 山都駅はまるで塾のように通った。時々、駅員さんが声をかけてきて、何で駅などを撮影するのか?と聞かれたものです。
 特別に事務所に招かれ撮影したけど、当時はスローシャッターなんてこと知らなかったみたいで、1/15秒とかで平気で手持ちシャッターを切っていた。今回はそんな写真ばかり。

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 ポイントの制御盤。列車の運転の記録用紙が見えます。

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 今は無き上りホームの待合室。これ、いつ無くなったのだろう。待合室には木の長いベンチがあって、新潟鉄道管理局の営業ポスターがたくさん貼ってあった。冬の雪の時に、待合室にで汽車を待っていると、「どこさいぐだよ?」なんて話からスタートして世間話に花が咲くこともしばしば。

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 駅裏にある杉の鉄道防雪林。今ではこの杉はもっと背が伸びただろうなぁ。ちょっと確かめてきます。

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 2008年8月3日撮影の写真。上とほぼ同場所です。鉄道防雪林は電柱をはるかに超え、鬱蒼としています。現在、この鉄道防雪林はほとんど手入れされておらず、今冬には木が折れたり(環境の変化?で雪が湿気を含み重くなったらしい)、倒木もありました。また、鉄道防雪林の奥の雷神山がまったく見えなくなってしまいました。


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 山都駅の跨線橋が開通した直後ですね。構内通路が通行止めになっております。

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 構内通路を利用するときに昇降する階段には鉄板のフタがあって、駅長さんや助役さんがカギを持って鉄板を開閉していました。今になって思い出したけど、昔の汽車は乗客の乗降のため構内通路手前で停まったいたんだよなぁ。

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 山都駅15時49分発230列車郡山行で会津若松駅に出かけた。

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 喜多方駅には日中線の623列車が。

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かつての貨物ホームには入換えチビ・ディーゼル機関車が車庫の中にいる。なんだか犬小屋の中の犬みたいで、とっても大事にされている印象。
 この貨物ホームには石灰がたくさん置かれており、僕はそれを「夏の雪」と呼んでいました。

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 230列車は喜多方駅から市内四校の高校生を乗せる「各駅停車」。会津豊川、姥堂、及川、堂島など丁寧に停車。

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 「おっ!複線工事かっ」。磐越西線にそんな仰天工事はなく、単にちょぴりルートずらしているだけ。でも、どうしてこの工事をしているのだろう。写真に写っている線路は使用感があるので、自分が乗っている汽車は新線を通っている。
 
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 工事区間はかなり長い。あー、写真ではどの区間だか分からない。多分に会津若松から及川までの区間だと思いますが・・・。

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 例のごとく会津若松駅裏の機関区方面に行ってみると、電気検測用の試験車のクモヤがいる。もしかして、さっきの新線の電気検測をしたのかも。特急電車みたいなスタイルは美しい。

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 数日後、僕は新潟方面に出かけている。多分に尾登駅付近だと思う。

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 以前の日記にも登場した日出谷駅の構内立売営業している「とりめし」販売のお兄さん。お小遣いの関係で何も購入しなかったけど、このとき既に「とりめし」フリークになっている僕。

昭和電工のディーゼル機関車とか。

 いつものように単なる写真日記っす。
 喜多方に整体に出かけましたが、予約時間より早く到着したのでしばし時間調整をする、と言っても行くところがなくて、日中線の遊歩道に保存されている機関車見物しかなく、昨日の鹿瀬日記に触発されたせいもあり、気分は昭和電工ゲテモノ機関車モード中。
 この機関車、実際に動いているところは見たことがありませんが、僕が中学生のとき(1980年代前半)ぐらいまで喜多方駅構内の開かずの車庫でぐっすりと眠っていました。



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 喜多方から山都までは酷道459号線で帰途につく。山都の一郷部落付近で「津川50km」なんていう大仰でピンと来ない看板を見てニヤリとする。

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 その後、汽車ではなく自動車で野沢へ。

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 一年ぶりくらいで野沢の「酔月」さんへお邪魔し、このようなごちそうに舌鼓を打つ。僕にはかなり贅沢です。

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 慣れないお寿司屋さんにさよならをして、羽虫が飛んでいる野沢駅で休憩。やっぱり駅は落ち着く。
写真はかつての野沢駅の集札口。新潟から多くの大山神社参拝客が臨時列車で野沢駅に到着すると、この真っ赤な駅の鳥居をくぐってから改札を出た。きっと、多くの駅員がここに立っていたのだろう。
 
 

鹿瀬駅

 鹿瀬駅は日出谷駅と津川駅の間にあるのですが、当時の僕はそんな同格クラスの三駅が並んでいることにニヤリとしていました。この三駅を大相撲に例えるなら、磐越西線番付の関脇、小結、前頭筆頭あたりの地位を常にあらそっているように感じられたのです。
 僕の駅観察ポイントといたしましては、旅客の乗降数、接続路線、駅職員の数、各現業機関の有無、側線の数、売店の有無、立食い駅そばの有無、駅弁の有無、記念スタンプの有無などですが、町の玄関口の発展した駅より、その駅が所在する地形などの関係で各現業機関が集まって発展した駅のほうが、数々のエピソードがありそうでとても興味深いところです。

 その三駅を見てみると、日出谷駅は急行は停車しなくて、売店がない。しかし、列車の終着始発駅で機関車の転車台もあって、駅弁やアンパンも売っている。
 津川駅は急行が停車し、売店があり、町自体が郡の中心地で、保線などの各現業機関がある。
 鹿瀬駅は急行が停車し、売店があり、構内には数多くの貨物側線が並び、近くの昭和電工には専用線が延びてゲテモノディーゼル機関車がたむろしている。

 そんな僕は新潟へ出かけときに、この三駅に差し掛かると窓を全開にし、駅の様子を車内からじっくり観察していました。また、中学一年のときに麒麟山へ遠足に行ったときは、鹿瀬駅で下車し、麒麟山に登って、津川駅から山都駅に帰ってくるというコースでしたが、本命の麒麟山登山よりも鹿瀬・津川両駅の観察ができたので、麒麟山の遠足は修学旅行以上の収穫があったコースと言えそうです。
 そんな僕は、今でもこの三駅を通る度に、目をつぶって活気があった頃を思い出すのであります。

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1981年 鹿瀬駅

トシ

 僕が小学生の頃、夏休みになると聞き慣れない言葉をしゃべる都会の子供たちがたくさんやってきた。僕らはこの町に住んでいる町の子供の顔は大体把握していたので、ちょっとでも見慣れない顔にはとても敏感に反応した。
 そんな彼らの特徴は、巨人一辺倒のこの東北の地でパ・リーグの帽子を被り、女の子はスカートを履き、ランニングをタンクトップと呼び、大きな虫採り網を振り回して肩にはやたらとデカい虫かごをかけてカブトムシやクワガタ以外は誰も捕まえないこの土地で蝉やトンボや蝶々を捕まえて、親と一緒に浮き輪で一ノ戸川で泳いで(山都一小は川で遊泳禁止)、親はラッパズボンや中途半端に長い半ズボンを履いて、フォルクスワーゲンというシャレた車に乗って、その後部座席でふんぞり返っている子供は傘のワンポイントが入っているハイソックスを履いて、僕らは町の駄菓子屋でバラ売りの爆竹をやっと買っているのに対し定価1000円以上もするユニーやイトーヨーカドーのビニール袋に入った豪華花火セットをブラブラと持って町を闊歩していたのを、僕らは漆喰の壁が崩た古い蔵の陰からこっそり見ていた。

 夏休みのある日の午後、僕は校庭に遊びに行くと同級生が何人か集まっていた。その中に今まで見たことがない醤油顔をした年下の男の子が混じっていた。誰かの説明によると、醤油顔の彼は、中学校校庭のバックネット裏あたりの家の親戚とかで名前はトシといい、夏休み目一杯を山都で過ごし、年齢は僕らより三歳年下だと言った。
 僕はそんなトシを、なぜか異国の人のように見ていたので、その日は微妙な距離感を置いていたけど、数日後にはトシは僕のところにやってきて、何十年も遊んでいるような口調の標準語で馴れ馴れしく話しかけてきた。
 「ねー、カブトムシってどこにいるの? 図鑑で見たんだけどさー、やっぱり、カブトムシってクヌギの木とかにいるんでしょ? ねー、カナカナって鳴く、ヒグラシってどこにいるの?」
 「そんなカブトムシなんかクヌギの木なんかで採ったごどもねーし、ヒグラシを採るなんてとても大変だぞ」
 「ふーん、そうなんだ。だったら今晩、その街灯の下とやらでカブトムシを採ろーぜ」
 僕は標準語を話すトシにうまく心を開くことができず、「うんうん」と空返事をしただけで、結局トシという都会の少年と街灯の下にカブトムシを採りに行かないまま、夏休みが終わってしまった。

 僕は中学生になった。当時の僕の興味の対象は鉄道で、毎日毎日鉄道写真撮影にハマっていた。そんな夏休みのある日、相変わらず山都に長期滞在しているトシが僕の家にやってきた。
 「ねぇ、どっか遊びに行こうぜ」
 「ダメ。俺はこれから汽車の写真を撮りに行くんだ」
 「汽車の写真なんて撮ってどうするのさ?」
 「これは高尚な大人の趣味だ。子供には分かるまい」
 「ふーん、どう考えてもガキの趣味にしか見えないけどな、俺は汽車よりバイクが好きなんだ」
 「バイクって・・・、免許もないくせに」
 「高校生になったらすぐに取るよ。そしたら後ろに乗っけてやるよ」
 「じゃ、そんときは乗せてくれよ。あんまり期待はしていないけど」
 「あ、やっぱダメだ。君を乗せるとなると山都までバイクで来ることになってしまう」
 結局トシは僕の鉄道写真撮影についてきた。よっぽどヒマなのだろう。場所はいつもの鉄橋だ。
 「ガタンガタン、ガタンガタン」
 汽車が鉄橋を渡る。僕はファインダーを覗いて夢中でシャッターを押した。
 「あれ、なんていう名前の汽車だ?」
 「DD51」
 「電気?」
 「ディーゼルだ」
 「ダセ」
 トシはその次の日も僕の家にやってきて、「あんまり興味はないけど、汽車の写真を撮りにつき合ってやるよ」と言った。トシは初めて出会った時に比べると少し大人びた感じになり、若干のトッポさも加わったけど、僕は裏表のないカラッとしたトシの性格に惹かれ、いつの間にか友達として接するようになっていた。
 夏休みが終わってからしばらくして僕宛に一通の封筒が届いた。差出人を見てみるとトシからだった。封筒の中には東京の地下鉄の写真が入っていて、「東京の“汽車”の写真です」とへたくそな字で便せんに書いてあった。

 トシは僕らが高校生になっても山都に来ていた。僕らが高校生ということはトシは中学生になっていて、僕らが毎晩のようにノラムの家(カフェ「スターダスト」)で夜な夜な遊んでいると、晩ご飯を食べ終えたトシが入ってきて、「親戚のおばさんに見つかるとやばい」と言いながら、一丁前にタバコをふかすようになっていた。小学校時代のトシのマセぶりを見ていた僕は目の前で生意気そうにタバコをふかすトシの変化に驚かなかった。そしてトシは「山都にかわいい女の子がいない」「バイクに乗ってナンパに行こう」などと、この町では到底実現不可能なことを何度も言っていたけれど、その日はあいにくの雷雨でナンパどころではなかった。

 その後僕らは高校を卒業して、この町を離れてしまったのだけど、就職して何年目かのお盆の夕方、僕らは高校生時代に戻ったようにノラムの家に集まり、飲み会をやっていた。ちょうどその日は午後から雷が鳴って、バケツをひっくりかえしたような雨が降って、雨が止んだ夕方になると秋のような涼しい風が吹いて、ノラムの家の裏にある大きな桜の木からヒグラシの悲しい声が聞こえてきた。すると、Cが思い出したように口を開いた。
 「なぁ、みんな、トシって覚えている?」
 「覚えているよ」
 さんざんトシが使っていた生意気な標準語を敬遠していた僕らだけど、都会に就職や進学した今では、やっと板についた標準語を使うのが嬉しくて仕方がない。
 「あのさ、トシ、死んだんだよ」
 「・・・・・・」
 「ついこの間、バイクで死んだみでだ。かなりスピードを出していだみでだけどな」
 あまりの衝撃に僕らは標準語を止めて山都弁でしゃべった。
 「そう言えば、お前はトシと一緒に遊んでいだよな」
 「あぁ、遊んだよ」
 「おい、ノラム、もう一個グラスもってきてくんにが?」
 Cはノラムにグラスを持ってこさせ、グラスにトシの分のビールをついだ。Cは続ける。
 「トシは東京の高島平というマンモス団地に住んでだがら、山都の自然が好きだったみでで、だから夏休み中ずっと山都にいだだべ」
 僕らはヒグラシの悲しい声を聞きながらトシに献杯をした。

 今でも朝晩に鳴くヒグラシの声を聞くと、標準語で生意気そうに話しているトシの事を思い出す。僕はトシより何年長く生きたのだろう。

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鉄橋付近で撮影

 1981年(いつものようにデータ無しですみません)、首からカメラをぶら下げて、自転車に乗って町内をブラブラ。木曽四つ角を鉄橋方面に下って太田橋で一休み。

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261列車がやってきた。ガタゴト・ガタゴトと貨物列車らしい音が河原に響く。この鉄橋、名前は一ノ戸橋りょうというけれど、「鉄橋」と言えばここを指す。でも、ここは空や雲を写すぐらいむつかしい大味な被写体。

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ブラブラを再開。砂利取り場方面に行ってみる。休日なのでダンプが来なくていいや、と思っているうちに山都駅15時49分発230列車郡山行がやってきた。

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赤いトタン屋根は石田坂のお家。鉄橋に近くて羨ましい限り。

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機関車が写ってなくてすみません。山都駅16時13分発233列車新津行。

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上と同じ233列車

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数日後、自転車を漕いで小布瀬原へ。山都11時15分発226列車郡山行を牽引するDD51-1027。九州からの転校生です。

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朝早く起きて砂利取り場へ。たった二両の山都駅7時41分発223列車野沢行。当時は喜多方〜野沢間が休日運休だったので撮影日は平日でした。ということは僕はこの日学校には行かなかったのだろうか。

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山都駅で223列車と交換した1262列車。

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山都駅8時32分発225列車新潟行。

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山都駅で225列車と交換した山都駅8時31分発224列車郡山行、言わば8時の汽車。写真には写っていないけど、224列車の後部には野沢止まりの223列車が回送されていたのでDD51二両のプッシュプル運転でした。

尾登駅や野口の思い出

 昨日の日記にアップしたネガの一番最初のコマに尾登駅が写っていた。多分にカメラにフィルムを装着したての試し撮りのようなカットなのだけど、何気ない試し撮りが思い出と思い出の隙間から出て来た宝物のように感じる時がある。
 この写真はひとりで出かけた時に写したものなのか、一級上の鉄道仲間の大関君とふたりで出かけたときのものなのか記憶は曖昧だけど、年季が入っていい味になっている駅名表、手入れされたピンク色の花、桐の木、青空、雲、山々、虫の声がチロチロと聞こえてきそうな絵は、いつ行っても人気(ひとけ)がない、いかにも尾登駅らしい写真だと思う。
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 そんな尾登駅の写真を見ていると、ついつい電力会社の社宅での生活を思い出してしまう。 
 社宅で生活したのは昭和44年から昭和49年までのわずかな時間だったけど、この記憶はどこか曇りガラスの向こうの世界を見ているような、とてもぼんやりとした僕の心象風景だと思う。
 
 電力会社、正式には山郷発電所の社宅は尾登駅から約二キロ離れた野口という部落にあった。今では誰も住んでいない一軒家がポツンとあるだけの完全な無人部落になってしまったが、昭和50年代初頭ぐらいまでは北海道の炭田住宅のような社宅が何棟もあり、電力会社職員の懇親ソフトボール大会が開かれたグランド、社宅近くの林の入り口には社宅用の小さな神社、神社の脇の猫の額のような広場にはブランコ(当時の社宅には小さな子供が僕だけしかいなかったので実質僕専用)が設置されていた。

 社宅での買い物は北島三郎の「函館の女」を大音量でかけながらやってくる移動販売か、午後から開店する社宅用の小さな売店だ。
 売店には日用品、お菓子、缶詰、インスタントラーメン等が所狭しと並べられていて、午後になると社宅の奥さん方が売店の前に集まって、魚などのおかずを積んだ売店用の自動車を今や遅しと待っていた。
 自動車の荷台に載っているのはおおよそ社宅住民分の一種類の魚で、その日の入荷がサンマの場合、どの家庭の台所からもサンマの焼く匂いが漂ってくるという今では考えられない生活だった。また、必要な物があるときは売店のお姉さんに頼んで翌日のトラックで持ってきてもらった。
 当時の僕の母は社宅で一番若かったので、先輩奥さん方に先に買い物してもらい、売店が閉店間際の頃僕を連れて買い物に出かけたらしく、そんなところにも当時の世相が感じられる。
 ちなみに売店の商品で僕のお気に入りは、屋台の絵が描かれていた明星「チャルメラ」と出前の坊やが描かれた日清の「出前一丁」で、売店に行く度にそれらの商品を眺めては、「買って」と母親にせがんでいた。
 売店のお姉さんは中川さんという方で、中学校を卒業してから山郷発電所の事務員として働き、発電所でお昼を食べ終えてから売店にやってきたので、売店の営業時間は午後一時過ぎから午後三時過ぎぐらいまでのほんの数時間で、中川さんは売店を閉めると尾登駅を四時半頃の汽車で隣町へ帰って行った。
 売店は山の中で暮らす僕らにとって、とても重宝しただけではなく、楽しみの時間でもあった。

 しばらくして僕は山都の教会幼稚園に通うため、尾登駅から山都駅まで汽車通を始めた。毎朝母親と尾登駅まで歩き、こじんまりとした待合室で汽車を待って、茶色の客車のタラップを確かめながら車内に入る。車内には重厚な木の椅子が並んでいて、白熱球の照明が優しく車内を照らし、ニスとタバコの煙の匂いがたちこめ、大きな荷物を背負った行商のおじさんやおばさんが居眠りをしていて、僕は窓から入る風を浴びながら鉄橋とトンネルの数を数えたりしていた。

 尾登駅前には一軒の商店(今から十年くらいまで営業していた)があった。幼稚園を終えて山都駅から汽車に乗って尾登駅で降りると、山都のストアーで買い物をしてきたのにも関わらず、僕は必ずこの商店に寄って駄菓子を買ってもらい、今にも越後の山々に沈みそうな遠くの太陽を追いかけるように、社宅までの砂利道を母と足早に歩いて帰った。そして、一度も行ったことはなかったけど、尾登駅近くの尾登部落内には一軒の酒屋さんがあった。

 幼稚園が休みの日は、社宅には僕ぐらいの子供が居なかったので、ひとり遊びばかりしていた。
 社宅の窓から磐越西線の汽車を見たり、近くの林で遊んだり、社宅の奥さん方と山へ山菜を採りに出かけたりして山の生活を楽しんでいた。

 思い出すのはこのくらいだ。このような継ぎはぎだらけの昔話を書いていると、実際に僕が体験した記憶なのか、それともそんな記憶を数多くの人に話したりすることによって、本当の記憶に新たな想像が上塗りされているのか、こればっかりは本当によく分からないけど、いつまでも尾登駅や野口の社宅は僕の心象風景であることには間違いない。
 今でも尾登近辺を自動車で通ることがあるけれど、社宅、グランド、神社、ブランコ、売店、尾登駅前の商店、尾登部落の酒屋さん、そして何十年も会っていない電力会社に勤務していた父を思い出し、懐かしさと寂しさが入り交じった感情が、喉の奥のほうからキューンと出てきて、そんな感情に包まれるのもたまにはいいかな・・・と思いながら僕はハンドルを握るのだ。

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 社宅にて。



終列車

 誰も居ない夜の山都駅に自転車に乗って涼みに行く。
 駅はまくら木のコールタールの匂いが漂い、あちこちで虫が鳴き、駅構内の照明には羽虫がたくさん集まっており、山都駅は虫の駅になっている。
 遠くから鉄橋を渡る汽車の音が聞こえてくる。きっと上りの終列車だろう。
 今日は土曜日だけど終列車には何人の乗客が乗っているのだろうか。“土曜日”で会社が休みだから誰も乗っていないか、それとも、“土曜日”だからこそ新潟方面へ出かけて帰ってきた人や、新潟や会津を旅行をするために乗っている人がいるかもしれない。
 薄暗い駅構内に一筋の光が差し込む。終列車が山都に到着した。山都で降りた人は三人もいた。みんなどこへ行ってきたのだろう。
 終列車はすぐに発車していった。車内の乗客を数えてみると五両編成に六人が乗っており、ほぼ一両にひとりの割合で乗っている。
 自分以外誰も乗っていない車両、窓の外は真っ暗闇で見えるのは自分の顔だけ、という最終列車の乗客は車内でどのような旅人を演じるのだろう。
 なんとなく寂しい終列車だけど、そんな貸し切りを味わうために新潟から乗ってみたい気もする。

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荻野駅へ

 写真は昨日の日中線のネガの最後の部分に写っていたものです。それにしてもネガをきちんと時系列にできないのが悩み。
 今日は隣の荻野駅まで一人で出かけた時だと思います。記憶がとぎれとぎれになっていますが、思い出せた分だけ書きます。

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 1981年9月13日日曜日(入場券のデータで判明)、山都駅10時16分発227列車新津行で荻野駅へ。227列車はDD51の若番が引っ張る旧型客車の編成で荷物車も連結されていた。よく、同級生らと駅に行ったとき、やってきたDD51のナンバーと自分の学校の出席番号が同じときは喜んだものだ。ちなみに僕は22番や23番だったのだけど、DD51の22番、23番、どちらも磐越西線を走っていた。
 荻野駅へは多分に硬券入場券購入と記念スタンプがあるのかどうか見に行ったのだと思う。残念ながら当時せっせと集めたスタンプ帳はなくしてしまったけど、思い出してみると当時の僕は鉄道関連のものはなんでも集めていた。鉄道写真、鉄道模型、駅弁の包装紙、駅に置いてあるチラシ、切符、駅の記念スタンプ、駅員さんの仕事ぶりを見たり、などど広く浅く夏休みの宿題のような自由研究程度にやっていたみたい。
 写真は茶色の荷物車マニ36で、磐越西線を走っていた荷物車や郵便車はマニ36の他に、スユニ61、マニ37、後にマニ50、スユニ50へと変わっていった。それにしても荷物車には数名の職員が乗務している割に、肝心な荷物は僅かで、子供ながら「国鉄はこれで大丈夫なのかなぁ」と心配していたものだ。

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 写真は恥ずかしいほどにブレているのですが、227列車が山都駅を発車した時です。僕は、かつて優等列車に使っていたという青色の旧型客車が好きで、実際にブルートレイン車両を見たことがない磐越西線沿線在住の僕は、これらの青色の旧型客車を「磐越西線のブルートレイン」と勝手に褒めた絶えて呼んでいたことが思い出されます。それでも「磐越西線のブルートレイン」にはちょっとしたテーブルと栓抜きがついていて、これだけでもとても豪華な車両に乗ったような気分になり、たった一駅区間の乗車であっても、このテーブルの上には、瓶のコーラでも置きたくなってしまいます。なので、この日も「磐越西線のブルートレイン」に乗車しました。車はオハフ33かオハ35でした。
 この時のダイヤは山都交換が多く、8時の225列車と224列車、10時の227列車と913D、11時の912Dと226列車、13時の229列車と228D、22時の239列車と236Dでした。荷物車の右側の窓には赤い車体が写っているのですが、これは10時14分発913D急行「あがの1号」仙台行きです。列車を見送るのは加藤駅長で、その後方にはオレンジ色の骨組みが見え、山都駅の跨線橋の建設している様子が分かります。

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 227列車は時間帯のせいなのか車内の乗客はまばらだったけど、旅をするにはこのぐらい空いていて、なんだか人恋しくなるぐらいがちょうど良い。僕はほぼ貸し切り状態の旧型客車の窓を大きく開けて、列車と寄り添うように流れる阿賀川や会津の山々を飽きずに眺めており、旧型客車のダダン、ダダン、ダダンという重めのジョイント音が眠気を誘う。
 写真は大谷部落の下あたりを走っている。この先にはボートレース場があって、耶麻農ボート部の男子は山都から自転車、女子は汽車で練習に来ていた。

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 8分の所要時間で荻野駅に到着。昔の駅舎はあまり記憶にはないけれど、荻野駅のモダンな建物はとても斬新でとても羨ましく感じた。売店は無いけれど、とても清潔な駅という印象がある。無事に入場券を買って、記念スタンプは事務室にあって、山都駅売店で買ったスタンプ帳に押した。

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日中線訪問記

 1981年、中学生になった僕は時間があれば汽車に乗ってどこかへ出かけた。それが一駅でも二駅でも僕は満足していた。そんな僕のお気に入りは、喜多方から熱塩まで走る日中線で、1984年に廃止されるまで飽きることもなく何度か乗ったことがある路線だ。

 1981年のある休日の午後、僕は日中線に乗りに出かけた。日中線の列車本数は一日三往復で、国鉄の赤字ローカル線として、もっぱら廃止の話が出ている。
 山都駅15時49分発230列車郡山行で出発。230列車はDD51が引っ張る旧型客車で荷物車も連結されている。乗客は野沢と山都から喜多方方面へ帰る高校生が多かった。230列車が喜多方に到着するとき、当たり前だけど日中線乗り換えの案内放送が流れた。一日の運転本数が少なくても、このような乗り換えの案内放送があるだけで、磐越西線の中間駅で乗り換え駅となっている会津若松や五泉のように喜多方駅の地位も高く感じられ、僕としてはとても誇らしい気分になる。
 230列車は喜多方に16時00分到着。野沢や山都から乗ってきた高校生に加え、喜多方四高校の高校生が入り交じり、喜多方駅は活気に満ちあふれている。
 僕は喜多方駅の喧噪を避けるように構内の外れにある日中線に乗り込む。乗客はまばらで喜多方から会津加納か熱塩に帰ると思われる高校生が数名乗っている程度で、会津村松と上三宮付近に住む高校生は自転車通学だと思う。それにしても汽車通の高校生は、市内の各高校からわざわざ喜多方駅までやってきて日中線に乗るのだけど、学校によっては今来た道を引き返すような通学ルートになるのでなんだか不思議。でも、そのような高校生こそが大事な日中線の乗客なのかも知れない。
 日中線の列車の編成はいつものDE10、オハフ61、オハ61のパターンで、客車二両は喜多方駅で昼寝をしている。
 列車は喜多方〜熱塩間11.6キロの距離をのんびりと進む。喜多方の市街を抜けて少しづつ勾配を登り、列車は熱塩に到着する。熱塩には温泉があるが、湯治客のほとんどが宿のマイクロバスを利用していると思われる。並走する道路も整備されはじめ、自家用車が増えているが、それに負けずに日中線には頑張ってもらいたい。
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 喜多方駅を16時04分に出発した623列車は会津村松駅に到着。駅はかなり荒れ果てている。

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 上三宮駅。

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 会津加納駅。駅舎には職員が詰め、貨物側線もあって心強い。

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 16時32分、終点の熱塩駅に到着する。

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 乗客には日中線に乗ることを目的としたファンも見受けられ、思い思いに駅構内で撮影している。DE10は機回し線を使って喜多方方に連結されて624列車となる。

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 日中線は野岩羽線として米沢を目指す。

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 エンドレールのカバーと電球無くなっていた。

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 624列車は会津加納駅で大停車し、貨車を連結する時間を取っているが、この日貨車の連結は無かった。

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 喜多方駅に到着すると折返し626列車として出発を待つ。

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 無事に日中線に乗り終え僕は山都に帰る。跨線橋を渡って下りホームに向かい、喜多方駅18時16分発235列車新潟行を待つ。部活動を終えて帰途につく高校生や通勤客もやってきて、駅も賑やか。側線には昭和電工の私有貨車が停まっている。

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 235列車が遅れているせいか、喜多方駅18時15分発915D急行「あがの3号」仙台行が先に到着した。ホームには235列車に積み込む荷物が置いてある。奥には日中線も見える。

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 タブレットをセットする助役。急行の車掌さんが駅員さんになにか話しかけている。きっと235列車の遅れについてであろう。
 こうして休みの午後を利用した日中線の旅は終わったのです。日中線、また乗りに行きます!

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